Mag-log in数十分前。 夜の静寂を切り裂くように、スマートフォンが震えた。 藤崎優は資料に目を落としていた。 だが、画面に表示された番号を見た瞬間、胸騒ぎが走った。 警備に当たらせていた人物からの連絡だった。 こんな時間に、わざわざ連絡をしてくる。 それだけで、嫌な予感がした。 通話ボタンを押す。「どうした」 返ってきた声は、明らかに切迫していた。「久遠ひかるが襲われました。現在、病院に運ばれました」 一瞬、意味を理解できなかった。 頭が、その言葉を拒絶した。 ——ひかるが? 襲われた? その二つの言葉が、頭の中で繰り返される。 次の瞬間——血の気が引いた。 背筋を冷たいものが走り、心臓を直接掴まれたような感覚に襲われる。 さっきまで普通に呼吸していたはずなのに、息ができない。「……どこの病院だ」 声を絞り出す。 病院名を確認した途端、優は椅子を蹴るように立ち上がっていた。 上着を掴む。 何かを考える余裕などなかった。 周囲の視線も、机の上の資料も、すべて視界から消えていた。 ただ一つ。 ひかる―――。(無事でいてくれ……!) それだけだった。 車に飛び乗り、エンジンをかける。 ハンドルを握る手がわずかに震えていた。 自分でも驚くほどだった。 これまで、どんな危機でも冷静に状況を判断してきた。 感情に流されれば、判断を誤る。 それを知っていた。 だが今は違う。 ひかるが襲われた。 その事実だけで、理性の奥に押し込めていた恐怖が、一気に噴き出していた。 赤信号もクラクションも意識の外に追いやられる。 頭の中にあるのは一つだけ。 ——間に合え!! 病院に着くと、ほとんど車を放り出すように降り、自動ドアをくぐる。 消毒液の匂いが鼻を刺した。 その瞬間、優の脳裏に嫌な想像が浮かぶ。 ベッドに横たわるひかる。 顔を歪め、痛みに耐えているひかる。 もしかしたら、意識を失っているかもしれない。 その想像を振り払うように、受付へ詰め寄った。「久遠ひかるは!?」 受付の職員は驚いたように優を見た。 端末を確認する。 数秒。 その数秒が、異様に長く感じられた。 やがて職員が首を傾げた。「……そのようなお名前の患者様は、いらっしゃいません」「搬送記録も?」「ありません」 優の思考が止
それは、あまりにも突然だった。 仕事を終えた頃には、街はすでに夜の色に染まっていた。 ネオンの光が濡れたアスファルトに滲み、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。 ひかるはコートの襟を軽く合わせながら、駅へと続く近道の路地に足を踏み入れた。 本来なら、通るべきではない道だった。 警護の人間も見当たらない。 人通りは少なく、街灯もまばらだった。 分かっていた。 優からも、夜は一人で出歩かないように言われていた。 それでも今日は疲れていた。 ほんの数分でも早く帰りたい。 ただ、それだけだった。 コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが響く。 その音が、妙に大きく聞こえた。 ——そのときだった。 背中に、じっとりと張り付くような気配を感じた。 ひかるの足が止まりかける。 誰かいる。 逃げなきゃ―――そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走った。「——誰?」 振り返るより早く、腕を掴まれた。 強い力だった。「きゃっ……!」 身体が一気に引き寄せられる。 口を塞がれる。 湿った布の感触。 そして鼻を突く、甘ったるい薬品の匂い。(まずい……!) 頭の中で警報が鳴り響いた。 息を吸ってはいけない。 そう直感した。 咄嗟に息を止める。 だが、恐怖で身体が震えていた。 心臓が暴れ、耳の奥で鼓動が爆発する。(早く逃げなきゃ!) 必死にもがく。 腕を振る。 肘を打ちつける。 かかとで相手の足を踏みつけた。「っ、この女……!」 低い怒声。 それでも拘束は緩まない。 むしろ、腕に食い込む指がさらに強くなる。 痛い。 怖い。 それでも声を出せない。 叫べば助かる。 そんな当たり前のことさえ、この瞬間にはできなかった。 そのとき、背後からもう一人の男が現れた。「早くしろ。車を回してる」 その声を聞いた瞬間、ひかるの全身から血の気が引いた。 一人ではない。 最初から複数だった。 偶然でもない。 待ち伏せされていた。 黒いワゴンが、無音のまま路地の奥へ滑り込んでくる。 ヘッドライトすらつけていない。 ——計画的だ。 そう理解した瞬間、恐怖が一段深くなった。 これは、ただの暴漢ではない。 自分を狙って、準備していた。 腕をねじ上げられ、引きずられる。 靴先がアスファルトを擦る。(
マネージャーの表情を見た瞬間、ひかるはただ事ではないと悟った。「……どうしたんですか?」 控室の空気が妙に静かだった。 さっきまで聞こえていたスタッフの声も、どこか遠い。 マネージャーは一度口を開き、すぐに閉じる。 そのわずかな仕草だけで、ひかるの胸に嫌な予感が広がっていった。 ——何かあった。 しかも、自分に関係することだ。 マネージャーは覚悟を決めたように言った。「ドラマ……『愛していると、言わせない』が、一時休止になったわ」 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。「……休止?」「スポンサーが次々に撤退したの。制作側も、これ以上は続けられないって」 ひかるの手から、台本が滑り落ちた。 床に散らばる紙の音が、やけに大きく響く。「そんな……」 声にならない。 ついさっきまで、その台本を握っていた。 この作品に戻るために、どれほどの時間を費やしただろう。 事故に遭った。 眠り続けた。 身体も心も思うようにならなかった。 それでも、もう一度だけカメラの前に立ちたかった。 自分はまだ女優だと証明したかった。 そして何より——。 優と同じ場所に立ちたかった。 やっと戻ってきた場所だった。 それなのに。 また奪われる。 胸の奥が、じわりと締めつけられた。「理由は……やっぱり、私ですか?」 その問いには、ひかる自身が一番恐れていた答えが隠れていた。 自分がいるから。 自分が事故に遭ったから。 自分が戻ってきたから。 また誰かに迷惑をかけてしまったのではないか。 マネージャーは即座に首を振る。「違う。これは明らかに誰かが仕組んでる。スポンサーへの圧力、妙に揃った報道……偶然じゃない」 その瞬間、ひかるの脳裏に浮かんだのは、一人の男の名だった。 黒川彰人。 そして……雪代沙羅。 胸の奥が、ざわつく。 嫌な確信が、少しずつ形になっていく。 黒川ならできる。 沙羅なら、それを望む。 そして二人が手を組んでいるのなら——。「それと……もう一つ」 マネージャーの声が低くなる。「あなたの身に、危険が迫っている可能性があるって。藤崎さんからも、十分注意するようにって連絡が来てる」 血の気が引いた。 ドラマが中止になったことよりも、その言葉のほうが恐ろしかった。 危険。 その一言が、ひか
重苦しい空気が、制作フロア全体を覆っていた。 藤崎優が扉を押し開けた瞬間、普段なら忙しなく動き回っているスタッフたちの手が、一斉に止まったように感じられる。 誰もが視線を合わせようとしない。 パソコンの画面に落とした目は、その奥にある不安を隠しきれていなかった。 優は足を止めなかった。 だが、胸の奥では、すでに何かが引っかかっていた。 ——嫌な予感がする。 ただの制作上のトラブルなら、ここまで空気が重くなることはない。 誰もが知っている。 黒川彰人が動けば、ひとつの会社だけでは済まない。 スポンサーが変わる。 広告代理店が動く。 テレビ局の判断が変わる。 そして、昨日まで正しかったものが、今日には間違いになる。 優はその現実を、すでに何度も目にしていた。 胸の奥に沈む感覚を押し殺しながら、プロデューサー室へ向かった。 ノックをすると、くぐもった声が返る。「……どうぞ」 中に入ると、プロデューサーの真鍋と脚本家の三枝遼が並んで座っていた。 二人とも疲れ切った顔をしている。 机の上には分厚い資料の束。 その一番上に置かれている紙を見た瞬間、優の視線が鋭くなった。 スポンサー一覧。 そこには、赤い文字で「撤退」と記された社名がいくつも並んでいた。「……これは?」 静かに問いかけると、真鍋が深く息を吐いた。「今朝だけで三社。昨日までに四社。合計七社が正式に降りました」 優の表情は動かない。 だが、拳だけがゆっくりと握られていく。 七社。 偶然で片づけられる数字ではない。「理由は?」 三枝が苦笑に近い表情を浮かべる。「表向きは“制作体制への不安”です。ですが……」「マスコミか」「ええ」 優は資料をめくった。 そこにはネットニュースの見出しが並んでいる。『主演交代で迷走する話題作』『事故から復帰した久遠ひかる、再主演は絶望的か』『制作現場の混乱、スポンサーも不信感』 そして、決定的な一文。——このドラマはもうダメだろう。 優の胸に、冷たいものが沈んだ。 数ヶ月前の騒動が蘇る。 久遠ひかるが事故に遭い、急遽、雪城沙羅が代役に立った。 現場は混乱した。 それでも、作品を止めるわけにはいかなかった。 そして優は、公言した。「久遠ひかるを主演に戻す」と。 あの言葉に迷いはなかった。
翌日。優がひかるに連れられてやって来たのは、都内でも限られた者しか住めないと言われる高級住宅街だった。広い道路は静まり返り、通り過ぎる車の音さえ、どこか遠く感じられる。整然と並ぶ邸宅の一つ一つが、そこに住む者の格を物語っていた。やがて車がゆっくりと減速し、重厚な門の前で止まる。門扉の奥には、四季を丁寧に閉じ込めたような庭が広がっていた。剪定された木々。淡い色の花々。石畳に落ちる柔らかな影。そのすべてが、ここに流れる時間の穏やかさを示している。だが、車を降りた優の胸には、穏やかさとは正反対の緊張があった。昨日、ひかるから聞いた言葉。——二十年以上前に、芸能界を追われた女優。黒川の影響力。雪城沙羅によって人生を変えられた人間。その人物が、今日会う相手なのだ。門を抜け、庭を進む間、優は無意識に背筋を伸ばしていた。ここはただの邸宅ではない。何か、目に見えない気配が漂っている。ひかるが玄関横のインターホンを押す。静かな電子音のあと、ほどなくして扉が開いた。現れた女性を見て——。優は息を呑んだ。美しい。年齢は五十代前半のはずだが、肌は滑らかで、首筋に皺はほとんどない。整った輪郭に、凛とした気品が宿っている。立ち姿には隙がない。ただそこに立っているだけなのに、視線を引き寄せる。まるで長年スポットライトを浴び続けてきた者だけが持つ重力だった。女優と言われても疑わない。いや——。かつて女優だったと言われた方が、むしろ自然だった。「いらっしゃい」穏やかな声が、柔らかく二人を包む。ひかるが一歩前に出る。「優さん。紹介するね。母の——久遠 美月(くどう みづき)です」その瞬間。優の胸に、かすかな違和感が走った。母親。確かに、目元や微笑んだときの口元に、ひかると重なる面影がある。だが、それだけではない。この人には、何かを知っている者だけが持つ雰囲気があった。美月は静かに優を見つめ、やがて微笑んだ。「あなたが藤崎優さん。話は聞いているわ」その一言だけで、どこか見透かされているような感覚がした。リビングに通されると、天井の高い空間に柔らかな光が差し込んでいた。落ち着いた色調の家具が並び、部屋全体が静かな品格に満ちている。ほどなくして紅茶が置かれた。だが、優はカップに手を伸ばすことができなかった。何
深夜に近い時間だった。FJエンターテインメントの社長室には、まだ明かりが灯っている。藤崎優はデスクに向かったまま、動かなかった。視線は資料に落ちているが、ページはもう五分以上めくられていない。黒川彰人。その名が、思考に重く居座っていた。スポンサー、業界圧力、メディア操作——。どれも現実的に起こり得る。いや。すでに始まっている。優は小さく息を吐いた。ひかるを守る。そう決めた。それなのに、守ろうとすればするほど、敵の大きさが見えてくる。黒川は金を持っている。人を動かす力もある。そして何より、相手の弱点を見つけ、そこを躊躇なく突いてくる。自分一人なら、どうなっても構わない。だが、ひかるだけは——。そこまで考えたとき。コンコン、と控えめなノック。「……入れ」扉が開き、顔を覗かせたのは久遠ひかるだった。「まだ仕事してたんだ?」その声を聞いた瞬間、優の張り詰めていた意識が、ほんの少しだけ緩んだ。「お前こそ、こんな時間にどうした?まさか、一人で来たのか?」ひかるは首を横に振り、「さっきまで、警備の人が一緒だったよ」そう言い、ひかるは室内に入ると、優の顔をじっと見た。そして、少しだけ眉を寄せる。「優さん……疲れてるね」優は無意識に苦笑した。「顔に出てるか?」「出てる。かなり」ひかるは少し考えるように視線を泳がせた。その仕草が妙に幼い。今や誰もが知るトップ女優。カメラの前では、感情の機微さえ完璧に操る。視線一つで観客を惹きつける“大人の女”。けれど今、優の前にいるひかるは違った。まるで、ずっと昔に戻ったようだった。肩の力を抜いて。少し唇を尖らせて。優の反応を確かめるように顔を覗き込む。そして、唐突に言った。「優さん、たまには一緒にご飯にいきませんか?」優は瞬きをする。予想外の誘いだった。「今からか?」ひかるはにっと笑う。「今から」その笑顔は、どこか企んでいる子どものようだった。優は思わず目を細める。——昔から、こいつはこうだった。何かを隠したいときほど、わざと明るく振る舞う。そして、寂しいときほど子どもっぽくなる。もしかしたら、ひかる自身も気づいていないのかもしれない。ただ優の前では、女優でいなくていい。それだけなのかもしれなかった。二十分後。二人は事務所近くのハン
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直